仕事中倒れて救急車、それから2ヶ月意識戻らず
そのまま死んだ。
私と姉は父親が死ぬ2日前1度だけ
面会させてもらえたが、それ以外は母親の意向で
合わせてもらえなかった
母は半年くらいは病んでいた記憶があるが、
半年後からはむしろ今まで以上に強く、
たくましい母親になり、私たちのことを女でひとつで
育ててくれた。
それから大分たって、私が20になって1ヶ月のとき
母親から不調を訴える連絡がきた。
そんとき母(九州の地元)、姉25(神奈川で就職)、
私20(九州他県で一人暮らしフリーター)
私はその時心配して色々と連絡をとった。
だが近所の病院に行き薬をもらったこと、
仕事の量を減らしてもらったこと、
初めて冷凍食品に手を出してご飯を作る時間を
睡眠時間にして休んでること
それらの連絡をもらって安心していた。
母に半月頑張れ!と連絡を送り母との連絡を途絶えた。
そして半月後母の不調を全く忘れた私は駅まで母に迎えに来てと頼んだ。
車で迎えに来た母親は正直ミイラに見えた。
やつれているを超えていた。
驚きすぎて言葉の出ない私に母はおかえりと言った。
疲れたでしょ。といった。
大丈夫だよと答える母。
でも絶対大丈夫じゃないのは明白で、仕事を休んで大きな病院に行ってほしいと伝えた。
しかし母は頑固で仕事は休めないという。
その時期は繁忙期というやつで、休みはなかなか取り辛いらしい。
家に帰ってから母が買い出しに行っている間に連絡帳に書いてあった会社宛に勝手に電話した。
支離滅裂だったけど、母がとにかくおかしい。とにかく休ませてほしいと無理矢理話を通して休みをとった。
帰ってきた母に仕事の休みをとったこと、入院してほしいこと、私が治るまで実家にいることを伝えた。
怒られると思ったが
あらあらじゃあ自転車を買いに行かなきゃ。車に乗りなさいと母はいった。
私はその当時免許を持っておらず、交通手段のないど田舎ではせめて自転車くらいないとと、
そんな状態の母親は私に気を使ったのだ。
ナフコに行って、好きな自転車を選びなさいと言われたが、すぐに一番安い9800円のママチャリを選んだ。
その時母は運転席から降りることもできない状態で、
あの自転車がほしいというと財布いっぱいの小銭を助手席に広げた。
その小銭のほとんどが500円玉で、きっと体調が悪くなった時に家にある500円玉貯金の中身を財布にいれたんだと思った。
私はその小銭の小さいものから数えて、
すごく大量の小銭を持って会計に行った。
少し恥ずかしかったけど、店員さんに一緒にちゃんと数えますからこれでお願いしますって言った。
母さんに買ってきたって報告して、
元運動部だった私は母さんが運転する車の後ろから自転車でついていく!競争しよう!と母に提案し、
車で片道5分のナフコから見事母さんより早く家に帰り着いた。
信号待ちで止まってる母さんの車を追い抜いた時、母さんの車を振り返ったら
母さんが負けないぞって笑顔で私の方を見てくれてた。
その時の顔は今も思い出す。
突如入院となった際に色々な手続きがいるというとこで、次の日に病院に行くことになった。
これが母さんと家で過ごした最後の日だった。
姉妹仲良くな
食欲がないからりんごが食べたいと言った。
母さんにりんごを剥いて当時勉強したばかりの塩水につけて持って行った。
一口食べてしょっぱい!しょっぱいよーって母さんが言うから私も食べたら本当にしょっぱくて、洗ってくるって言ったんだけど
母さんはこのままでいいって言って2つ食べてくれた。
きっと本当に入らなかったんだけど私が作ったからって無理して3つめを食べようとしたのがわかったから
あーお腹減ったーりんごもう食べていい?
って聞いて他のりんごは食べた。
そのあとすぐ母さんはトイレに行って
きっと母さんは知らないと思うけど戻してるのがわかった。
本当に母さんが大丈夫なのか心配になった。
母さんはまだまだ子供だねっていいながら一緒に寝てくれた。
その夜はすっごく怖い夢を見た。
あまり覚えてないけど髪の長い女が枕元にいてそれが怖くて飛び起きた。
寝汗がたっぷり。本当に怖かった。
母さんも私に驚いて起きて、母さんに怖い夢を見たって話した。
母さんはじゃあ一緒に起きとこうかって言ってくれた。
それから2人して隣同士寝っ転がったまま起きてた。
でも、多分母さんはずっと寝てなかったんだ。
私は怖い夢を見てからずっと寝れずにいたけど、その間ずっと母さんの唸り声と腰をさする音、寝返りの音が聞こえる。
寝たくても寝れないような状態だということが分かった。
起きた時には母さんは隣にいなかった。
母さんを探すとトイレにいた。
何も声をかけずに待っていたが15分くらいトイレにいる。
母さん大丈夫?と声をかけたが応答がない。
トイレのドアをドンドン叩いた。
大丈夫!大丈夫やけん!きにせんで!
ドアを叩く音で目覚めたのか、母さんが反応する。
その後救急車を呼ぼうと電話口に駆け込む私を母さんは大声で止めた。
田舎で救急車はご法度。
私は急いで病院の準備をし、
本当に最低だが苦しむ母が運転する車に乗った。
私は母が車で20分を超える病院まで運転できるのか本当に心配しながら車に乗っていた。
田舎だと噂が広まるのが早いから
救急車呼ぶと変に噂が広まって嫌っていうのが1つ
あとコミュニティが狭いから救急車に乗ってる人が○○さん家の息子→○○さん家に迷惑かけるみたいのもあるらしい。
よくわからないけど1つ目が一番だと思う。
事前に招待状はもらっていたのだが
大病院だからか2時間ほど待たされた。
だが病院にきた安心感からか母は昨日より全然回復していたように見えた。
その後診察があり、前病院での結果は過労による○○だったが、今回の検査の結果が出るまで一応入院しましょうということになった。
私は母の容態をとても心配していたが、病院側は特に問題はないでしょうが…という前置きで上記の話をした。
そのことに安堵した私は母にゆっくり休んどき!と言ってバスに乗って帰った。
が、このあと2週間で母は死ぬ。
本当にこの時病院を信頼していた私を殴りたい
本当に吐き出しているので意味不明な文章等あれば申し訳ないです。
こっちは気にしなくて良いよ~
自分のペースで自分の書きたいように書いてください
きっと医療ミスじゃないと思う。
ただただ私が無知すぎて信用しすぎたっていうのが悪。
あの当時は医者と看護師への責任転嫁は凄かった。
担当医が殺したって本当に思ってたよ。
自分のペースで構わんよ
あとから担当医がいない日がある病院って聞いて転院したいって本当に思った。
でも状態が日に日に悪化するからあとからの転院は間に合わなかったんだ。
初めの病院選びは本当に大事だよ。
入院するってなったら安心して回復したー!ちゃんとご飯食べた?
今思うとあの状況で私への心配なんて、本当に私の母は凄いと思う。
だがその時は私はバカで、本当に母はなにもなく、入院しただけで過労がなくなって治ったと思っていたんだ。
ラーメン食べたよー!よく寝ろよー!
みたいな短文を返してすぐに寝た。
姉にはそれまで
母の容態が悪い帰ってきて、
入院する帰ってきて、
とメールを送っていたのだが
姉からの返信は仕事の都合がつかないから任せた。詳細の連絡は頂戴。もし凄い病気なら無理して帰る
といったものだったので、
その日に過労によるものだったみたい。入院したら落ち着いたって。
と連絡をした。
これネタだったら許さないからな
本当の話だから許して。
お父さんお大事にね。
正直どれだけやれることやってもなくなったらきっと後悔すると思う。
でもやれるだけやるかやれてもやらないかだったら絶対に前者がいいから、お父さんのためにやれるだけのことしてあげてほしい。
応援してる
大病患う経験なんてないから対応が後手後手になることも当たり前だ
1の行動に非はないよ
いや私は無知すぎた
そして知ろうとしなさすぎた。
本当に反省してる。
今誰かが癌だって言われたらすぐに調べて適切な処置をするよ。
末期ガンだって宣告されて助かる助かる!なんてアホなこと思ってた自分を本当に殴り潰したい。
病院から特にそれといった連絡はなく、
母も日に日に元気になっていくよー!といったメールを送ってくるので
特に心配せずに実家でゴロゴロと過ごしていた。
何度か病院に行くよと母にメールしたのだが、
バスでは片道40分かかる病院。
母は遠慮して、病院に来るくらいなら美味しい晩御飯作って食べてと連絡してきた。
私はアホなので、過労の母は一人でゆっくり休む時間が必要だろうと判断し、
お言葉に甘えて今日はカツ丼作って食べます!
などとアホな返信をしていた。
よくわからなかったが消耗品を持っていくという程で無理矢理病院へ行った。
母に病院に行くというメールを送ったが返信はなかった。
病室も覚えてなくまずは受付へ。
○○の娘ですが病室を教えてくださいというと、
少々お待ちくださいと言われた。
10分くらい待たされて、何故病室を教えてもらえないのか、病院を間違えたか、聞き方が悪かったのかなどヒヤヒヤしていると、突然病院の先生が現れた。
ちょっとお時間いいですか?
と言われて2Fの病室の奥の部屋へ。
どうぞお座りくださいと言われて奥の席に座ると
迎えに担当の先生、その隣に謎の先生が座り、謎の先生の隣に看護士さんが立った。
そして言われた
母さんは末期ガンですって。
腸にでかいのが2こ、小さいのが数えきれないほど。
母さんには伝えてある。
が、母さんから娘達には伝えないでくださいと言われて今まで言わなかったと。
2分くらい無言で考えて、助かるんですか?と聞いた。
そしたら先生は大丈夫ですよ。お母さんを信じましょう。我々も全力を尽くしますって。
大丈夫って言ってくれた。
私はアホなので大丈夫なんだって、
末期ガンだけど大丈夫なんだって信じた。
私は末期ガン→治らない→大丈夫の下げられて上げられた流れて元気よく病室へ向かった。
そこにいたのは母じゃなかった。
いや母なんだが生気がない。
本当に母さん?
そんな感じの母さんがいた。
驚いたが普通通りに対応しなくちゃいけない気がして、驚きの言葉を呑み込んで消耗品持ってきたぞー!と言った。
母さんは突然で驚いたー!バスで来たの?と聞いた。
が、その声も母さんの声じゃなく、
寝たきりのまま絞り出すように声を出していた。
聞いたよー癌だってー?でも母さんなら治せるよ!先生もそういってたし!そうでしょ?
って言っちゃった。
言っちゃったって今なら書く。でもその時は精一杯色々考えた末の声かけだった。
母はあらー聞いちゃったのー?でも大丈夫なのよ。○○治療で○○パーセントは治るっていうし、母さん強いから!今はこんなんだけど2ヶ月後にはいつもの母さんで帰るからね!
そんな感じのことを母さんは笑いながら私に言った。
母さんの言葉で私はすごく勇気づけられて、
2時間くらいしょうもない話をしてから
母さんのそろそろ帰らないと日が落ちるよ!危ないよ!の言葉に押されるように帰った。
姉には母さん末期ガンだって!でも大丈夫だって!辛そうだったけど、でも元気そうだった!ってメールを送った。
今考えたらむちゃくちゃだ。
本当に大丈夫なの?
大丈夫だと思う。先生に大丈夫だって言われた。
どこの癌なの?ステージ何なの?
よく覚えてないけど肝臓と腸。ステージは知らない
何で聞いてないの?!
じゃあお姉がこっち帰ってきて自分で聞けば?先生が大丈夫っていってるんだから大丈夫でしょ
明日帰るわ
本当にこんな感じで思考停止している自分を姉に当たって寝た。
次の日姉と一緒に病室へ。
姉と先生は詳しい話をしに奥の部屋。
わたしは母の元へ。
昨日より調子が良さそうだったが何故かお腹が腫れていた。
母に聞くと腹水というやつらしい。
もう少し溜まると機械で水を抜くのだそうだ。
わたしの目からは今すぐ抜いてあげて欲しいくらい溜まっていた。
そして何故腹水が溜まるのか疑問に思った
このさき本当に私が思考停止しすぎて最低で、
本当は書きたくないけど向き合いたいから書かせて。
すごく気分悪くなると思うからダメそうな人は見ないほうがいいと思う。
叩かれるの承知で書く。
わたしは最後まで付き合う
がんばれ
腹水も末期ガンで助かるっていうのも。
もっというと末期ガンなのに家族に話さない、聞かなきゃ説明しない先生にも疑問を持っていた。
先生についてさらに言えば先生が週2日くらいの交代制で先生がいない日が多く、不満に思っていた。
いつもなら疑問に思ったらすぐググってた。
というか普通の人なら姉のように直接疑問を先生に聞くと思う。
でも当時の私はググらなかった。聞かなかった。
悪い話を聞くのが怖くて、
聞いた後どうやって母に対応したらいいのか考えるのがしんどくて、
もし母が死んだらなんて考えるのが怖くて
自分が傷つくから正解は知らなくていい、助かるって信じたいって思ってた。
そして田舎生まれ田舎育ちの私は病院の先生は正しい、先生の言う通りにしていたらいいって刷り込まれてて、セカンドオピニオンなどが一般的なこと時代にも先生のことを疑問に思うことは失礼だと感じていた。
本当に最低なこと書くけど本当にありがとう。
姉が先生の話を聞いて母の病室へ帰ってきた。
多忙な姉と母は1年以上ぶりの再会だった。
帰ってきた姉に母はわざわざ帰ってこんで良かったのに。仕事大変っちゃろ?無理させてごめんね。
って言った。
姉はなんか言おうとした。
言おうとして泣いた。
本当に泣いた。
わんわん泣いた。。
そして私は姉のこと最低だと思った。
一番きついのは母さんなのに姉はきつくないのになんで姉が泣いて母さんが慰めるんだ。
1年以上ぶりに現れて、一番きついときの母さんに対して泣いて慰められて、最低だと思った。
私は絶対泣かないって決めた。
むしろ母さんが泣きながら弱音を吐けるような強い子になろうって思った。
この辺から私の考え方がおかしくなった。
ティッシュ2箱とトイレットペーパー1袋だけ。
フリーターな私は実家に帰ると職がなく、もともと貯金がなく、母さんが入院する前の日の持ち金は5000円もなかった。
病院まで乗り換えありで片道500円以上するバスの交通費を考えると、何か欲しいものを買ってあげることはできず、母の金で必要なものを買って渡しに行っていた。
正直母が入院している間私が友達と遊ぶ金も確保しておかなければならないという気持ちが強かった。
一人で退屈な実家暮らし。実家を守ってるんだから友達と遊ぶくらいいいだろうとクソみたいな考え方があった。
その日姉は久しぶりの母との会話を楽しみながら
多趣味の母に、パズルや小説、見たことない編み物キット、刺繍キットを渡した。
入院中暇だからだろうからと母さんが好きそうなものを買ってきたといっていた。
母さんはとっても喜んでいた。
刺繍キットには5400円の値札が付いていて、あんたこんな高いものを…!と母さんが姉に突っ込んでいたのを覚えてる。
母さんが喜ぶと思ってさって笑いあってた2人をちゃんと笑えてたかどうかは自信がない。
りんご向いて一緒に食べたり自転車で競走したり一緒に寝たりしてきっと嬉しかったと思うよ
2人から大事にされてるって喜んでいただろうな
先生と話したけど大丈夫みたいだった。
問題があったらまた連絡しますって言ってたから私がいない間よろしくねって言われた。
はいはい任してーって雑に返事をして私は実家へ帰った。
次の日なんかそわそわして私は呑みに出た。
朝から晩まで呑んだ。
お金は友達に前借りした。
その次の日二日酔いで目が覚めてそれでもまだそわそわして病院へ行った。
母さんに何も言わずに行った。
母さんの病室に入った。
母さんは若干生気を取り戻していたように見えた。
が、私は母さんがやっていた刺繍キットに目がいった。
これすごく楽しい!○○もしてみる?って言われて、いやいいや、あんまおもんなさそーって言ったのはただの嫉妬心。
腹水の量も減ったしご飯もたべれるようになったって褒められたのよ!
って嬉しそうに話す母を見て、心から喜べなかった私はばかだった。
自分が頑張ってなかったことの報いだし、
姉が私の持っていない経済面で母をサポートしているにもかかわらず、
母へのやるせない気持ちを姉に全力で当たっていたんだ。
母と話していると看護師さんに話があると呼ばれ、
担当医の元に連れて行かれた。
担当医は今週どこかで姉と私と話したい。姉とアポをとってくれと言った。
私は何を考えていたのか姉にも伝えますから今言ってくださいと言った。
担当医には今のあなたは混乱しているので姉も混じえた方がいいと説得されたが、結局無理矢理聞いた。
今でも全然覚えてないけど他の部位にもガンがあった。
しかも2個の臓器。小さいのが沢山。
え?…え??って思考停止した私は繰り返した。
ごめんなさい。本当にお姉さんを呼んでください。
重要な話ですのであなただけで抱えるにはこれ以上は無理です。
と先生に言われたことはすごくショックだった。
それから姉に電話したがでなかった。
テンパった私は姉の会社に泣きながら電話した。
もう最低もいいとこだ。
しかしその最低な行為が功を奏して姉は次の日から1週間以上の休暇をもらえた。
次の日姉、私、母、3人で担当医と話すアポをとった。
ずっとベッドに寝てたので知らなかったが
母はもう歩くことができなかった。
私が車椅子を押しながら行った。
担当医の話は難しかった。
難しく難しく包んで治療法はないと言った。
延命はできると言った。
全く受け入れられなくて沈黙が続いた。
何をおもったんだろうか。
未だにあのタイミングで何故と思うが、私は母の前で、姉の前で余命を聞いた。
母はいつまで生きれるのですか?と。
先生は3ヶ月、持って半年です
と答えた。
本当に病室が静かになった。
姉がお前なんでここでそんなこと聞くと?!?!ありえんくない?!って私を責めた。
が、私は全く動じなかった。
あの時は感情がなかった。
母が私は強いけん皆が半年しか生きれんなら5年は生きれるけん大丈夫よってお姉を慰めた。
姉は泣いた。
私は…どんな顔をしてたか覚えてない。
一人になりたいってどっか行った。
私は母さんに余命を聞いたことを謝った。
母さんは笑顔で聞いてくれてよかった~!目標が持てたけん!ありがとう!って言った。
私はどう返事したらいいのか全くわからなくて笑顔でそうやろー!って言った。
最低すぎる。
書きながら本当に殴りたくなってきた。
わかんないけどきっとあの日の夜は母さんは沢山泣いたと思う。
私は泣けなかった。
ただ何も考えず家に放置されていた日本酒を呑んだ。
入院して2週間くらいで母さんが亡くなったのは間違いないけど時系列が合わなかったらごめん。
それから姉と私の2人の実家生活になったんだが、
いつでもどこでもシクシク泣く姉に私はイライラし、
姉は私の無神経さにイライラし
そして環境がピリピリしていてうまく2人で生活できていなかった。
毎日母の病院へ行くのだが、この辺りから私の全財産が尽き始め、姉にはかっこつけてそのことが言えず、私は家の掃除とかするから行っておいで~みたいなことを言っていた。
何日目か分からないが姉を送り出して家でゴロゴロしていたら家に電話がかかってきた。
病院からだった。
母さんの病状が悪化した。急いで来て欲しいと。
とにかく病院へ行こうとしたが金がない。
焦って焦って焦った私は母さんにもらった自転車を飛ばして病院へ向かった。
道中姉と連絡が取れずに焦っていたが、田舎でバスの本数が少ない為、バスの横を通るたびに中を確認していたら、病院の1停前のバス停で姉のバスに遭遇。
病院で待って急いで事情説明。
母の病室へ向かった。
てっきり担当医がいると思ったがいたのは看護師さん3人。
父の病室に入った時と同じくピッピッと心音を鳴らす機械、酸素マスク、ものすごい勢いで繋がれているホース。
本当に唖然とした。
すぐに泣きつく姉。
私はどうしたらいいのかわからなくてただただ立ち尽くした。
それって最後になる人に言うやつでしょ?まじなんなの?
ってかなり威圧的に返してしまう。
そしてさらにヒートアップする。
担当医どこなん?なんしよーと?
今日は担当医は出張で遠くにでてて、連絡が繋がらず…
いやいや連絡くらいできる環境にしーよ!重病の患者もっとーとよね?!
いえちゃんと連絡用の携帯?は持っているのですがあちらも色々とあって…
なんかそんな感じで看護師さんにまで八つ当たりした。
今夜中の可能性が高いので親戚の方など最後を看取って欲しい方がいましたらお声掛けしてください
みたいな捨て言葉を吐いて看護師さん達は外にでていく。
もうどうしようもないんだよ。
こいつは死ぬからあとはお別れしとけよ。
みたいに聞こえた私の心はだいぶやばかったと思う。
親戚に電話する
親戚バタバタする。
準備してすぐ行くね。って言われる。
準備してんじゃねーよ!とりあえず泣けや!ってもうこの辺の思考回路支離滅裂。
この流れを4回くらいやって病室に戻る。
親戚が来る。
皆声をかける。
よくわからん親戚の子供が私の母さんに声をかける。
親戚が握手しよーねっていう。
親戚の子供が握手握り返してくれたって言う。
姉が本当に?!って身を乗り出して握手する。
握り返してくれない。
多分たーくん(偽名)のこと○○おばちゃん(母)が大好きやけん握り返してくれたんやねーって
親戚のばーちゃん達が言う。
は?うちらのことの方が好きにきまっとうやん
ってよくわからない意地の張り合いを心の中でする。
もう心狭いなんてレベルじゃないよね。
本当に書きながら恥ずかしい
みたいなよくわからない気持ちがあったと思う。
親戚一同久々に集まってわいわいがや。
その時の主人公は有無を言わさず一番若いキッズ。
人が亡くなるというイベントはキッズに対する勉強会。
おばさんはキッズが好き。
みたいな。
私の色眼鏡からはそうみえてしかたなくて
当時母さんの最後に親戚が来たことはすごく嫌だった。
今考えると看取ってくれる人がこんなに沢山いたことは、母さんにとって幸せなことだったって思えるけどね。
夜中になって親戚、私、姉で交代で母の容態を見るようになった。
私が一番最後で深夜4時。
一人で母のところへ行った。
ドアを開けると無言の姉が泣きながら母さんの手を握ってて、
沢山話すのに話しかけてくれないって、泣いてて、
この前まであんだけ憎く思ってたくせにすっごい可哀想になって、
きっと姉ちゃんが話しかけたのは母さんに届いてる。絶対返事してくれるって言った。
あららー夜中までごめんね。
と母さんが喋った。
喋ったというか呟いたよりも小さい声だったんだけど、
それでも2人とも反応して、そして大喜びで、
慌てて言いたいこと言った。
私は母さん生きる?生きるよね?
って聞いた。
ばかみたい。
母さんは笑ってた。
死なないわよ。っていいながら笑ってた。
お姉ちゃんはあほだから最後の言葉みたいに私たちのことすきだよね?私お母さんのこと大好きだよ!ってずっと言ってた。
お母さんも○○のこと大好きだよ。○○のことも大好きよ。ずっとすきよって言った。
それおわりのことばみたいで嫌や!とりあえず休み!休んで早く治して!って言った。
母さんがすごく無理して見えたから
母さんがありがとう。おことばに甘えてちょっとねるけん心配せんでって言った。
そのまま10分くらいして本当に寝たみたいで
姉ちゃんは安心した表情で寝てくるねって病室をでた。
母さんと2人きりになると沢山の思いが溢れてきて、
沢山謝った。
私が貧乏でごめんね、
母さんを貧乏にさせてごめんね、
一人で寂しい思いさせてごめんね、
まだ結婚せんでごめんね、
りんごさえうまく切れんでごめんね、
力なんてもう殆ど入れれないはずなのに。
もう最後らへんはありがとうありがとうってずっと呟いてて、
無理して握ってくれてる母さんにハッと気づいて
ごめん。ゆっくり休んでいいって言ったのに。本当にごめんね。休んで。って言った。
そしたらすーっと力が抜けてって
すごい心配したけど心音があって安心した。
そのあと3時間くらいぼーっとしてた。
何も考えずに母さん見てた。
そしたら突然看護師さんと親戚、おねえちゃんが病室に入ってきて、一人の看護師さんが時計を見てるの。
え?もしかしてって思う暇もないくらいに
皆が母さん死なないで!!って母さんを叩いたり、母さんに乗っかったりしながらいうの!!
生きるって言ったよね?!言ったよね?!
まだしたいことたくさんあるよね?!
ねー!ねーってばっ!!!って
看護師さんが何故か酸素マスクとって、皆が口元に耳を寄せた。
私も寄せた。
皆ありがとごめぐらいで本当に突然ピーって言いだして
避けてくださいってしらない先生に言われて心臓マッサージをしらない先生が初めて
それで亡くなった。
○○時○○分です
って先生が言った。
これ安楽死って事?
しゃべれたのに酸素マスク取られたってことは?
酸素マスクしていると喋りづらいし、周りにも声が届きにくいんだよ
マスクをつけたままにしておいても助かることはないのがわかっていたから本人や家族に悔いが残らないように最期の言葉が伝わるように外してくれたんだと思う
最後の最後雄叫びをあげる親戚らにあんたら何を母さんにしてたの?長男の嫁だからっていびってたくせにって思った
親戚の子供が泣いてるのを見て何空気読んでるの?って思った
母さんのことなんか知らないくせにって思った
すっごい泣いてる姉にもそんなに泣くならなんで神奈川なんて母さんから拒否されたのに無理矢理行ったの?そんなに母さんに生きて欲しいならそばにいろよって思った
悲しいって感情はなかった。
母さんが死んだ劇場への参列者を見てるような気分だった
そして何よりそんな風に思ってる自分が泣く権利なんてないなって思った。
だって先生より親戚より姉より、誰より側にいていつでも会える環境に居て、会わずに、して欲しいことちょっとしかできずに生きてきたんだもん。
私がもしあの時嗚咽してたら、
それを見てた私は
あんたは側にいたくせに今更泣いてなんなの?もっとできることがたくさんあったでしょ。できる機会もあったでしょ。それをしてないのに最後だけ泣くなんて最低だよ
って思ったと思うから。
本当はその後の葬通夜とか葬式とかも書いて、
あわよくば読んでくれた人の何人かが参考にできるようなことまでかけたらって思ってたけど、
ここまでで泣きすぎて目が開かなくなってしまったのでここでやめる。
優しいコメント見ながら普通に泣いてしまって、
昔は↑までに書いたように世の中への優しい行いとか相手のことを思いやるとか、そういったことをクソみたいに思ってたけど
泣いたってことは私もちょっとは人間的になったのかなと少し安心した。
実は母が亡くなったあと精神科にお世話になった時期がある。
通院1ヶ月程度でやめてしまったんだけど。
その精神科医の先生が溜め込むのは良くないからどこででも吐き出した方がいいってよく言ってたんだけど、吐き出すことができずに5年。
お盆が終わった時はいつもこの時を思い出してよくわからない感情になるんだけど
ふと先生の言葉を思い出して、
もう5年経ったんだから前を見なきゃって気持ちで、あの当時思ってたことあったこと吐き出させてもらった。
想像以上に自分の考え方のおかしさ、あの時泣けなかった後悔、周りの人たちの考え方がわかって書き込んで良かったなって思った。
あと私の負の感情を書き込むことで、その感情に対して冷静に恥ずかしいと思えたし、申し訳ないと思えた。
本当に読んでくれた人達ありがとう。
最後まで書き込めて良かったです。
それね
私も朝起きたら亡くなってたわ
立ち会えるだけマシ
過労性心疾患だったわ
良い奴ほど先に行くって事かって思ったくらいだなぁ
うちは所謂エコノミー症候群
家だし前の日は一緒に外食したしまだ51だしなんか色々信じられんわ
やっぱり50代か
うちは十七人欠員をなんとかしようとしてなったとか聞いた
私は当時フリーターでいつでも会いに行ける状態で会わなかったんだよね。
会えなかったとは違くて。
本当にそこを反省してる。
しかもちゃんと働いてなかった自分のせいで貯金がなくて、もしあのときちゃんと働いていたらもっと楽しい入院生活が送れたんだと思うと
もっというとちゃんと考える思考能力があって、適切な病院選んだり、精神的なサポートをできたんだと思うとダメだ。
フリーターだからこそダメだったんだと思う。
倉庫の夜勤だったわ自分は 身内が一杯いたから葬儀はお任せできたくらいかな
子供が独り立ちをして最初に自分が病状を知った場合、ご本人の希望で亡くなるまで家族に隠し通す事に協力するお医者様もいます(田舎だと特に多い)
今回がそのパターンだったのかはわからないけど、お母さんは最期にあなたと一緒にいれて幸せだったね。
お母さんはこれから>>1が幸せになる事を願っていると思います。
辛かったな
知り合いに同じ境遇の子がいる
参考にさせていただく
お疲れ様。
当時の年齢を考えると仕方ないよ。
ただ、傍にいてあげられた時間が多くて良かったよ。
ご苦労さん、あまり無理はするなよ。
まだ若いし、しょうがない事だよ。
親が死ぬ事は、子供への最後の教育。
子供はそこから色々学んで今後の人生に役立ていけば良いと思う。
泣きながらでも良いから顔を上げて生きていきなね。
若いと進行も早いからなぁ
辛いけど時間が過ぎて行けば落ち着くよ
墓参りして、近況報告してあげれば喜んでくれる
でフリーターから卒業出来てのか?
別段不快に思わなかったよ
まだ若かったんだし、がんばったと思う
親の死に直面したら、年いってても冷静さを失ったり、受け止め切れなくて感情を失ったり、思考停止したり
それが普通だよ
今の>>1の成長をお母さんは天国から喜んで見てると思う
1さんに幸多かれ
ニートでごめんかあちゃん…
いつでも会いに行けるからこそ会いに行かなくなっちゃうもんだよな
>>1母のためにも幸せになってくれ
親を大切にするわ気付かせてくれてありがとう